東田町屋台設計図について


 過日、某氏から「東田町の屋台の設計図が見つかったけれど、見てみるかい?」という声を頂きました。
 早速伺って拝見したところ、青焼きをさらにコピーしたもので、かなり汚れが目立ちます。
 そこで早速図面を拝借し、図面をトレース、復元いたしました。
 まず、下の図面の画像をご覧ください。
東田町屋台設計図
(屋台完成から50年以上過ぎているので図面に関する著作権の問題はクリアできているものと解釈しますが、一応デジカメによる縮小画像であることはご海容ください。)

 左側には「設計師  掛塚町  平野孝(信継)」と平野孝さんの署名、そして昭和28年に描かれたものであることが記されています。
 見つかったときには感無量の思いがありました。
 ただ、この屋台の図面は、実物の東田組屋台とは異なるところがいくつかあります。
 目に付く主な相違点を挙げました。(各部分の詳細画像は後日公開します)

 特に彫刻に関しては、御簾脇の巻き龍以外はほとんど違います。
 平野孝さんの署名はあるものの、ちょっと気になります。
 堂宮彫刻師、山田峨聖氏のご子息、隆さんによれば、「建築様式や彫刻の意匠の変更はごく当たり前のことで、図面が出来上がってからも依頼者と職人がお互いに修正ややり直しなどについてのやり取りをすることは普通にあることだ」とのことです。

 特にこの当時(昭和24〜38年の戦後第1次屋台建造ブーム)は、浜松市内だけも50台前後の屋台の建造が行われています。
 また、「凧」だけでなく、掛川・福田・入野など、多くの地域で屋台及び屋台祭の復興が始まっています。
 また、遠州の他地域に比べて浜松屋台は大型であるため、この建造ブーム当時は1台の屋台を宮大工・彫刻師各一人で完全にまかなうと言うのはかなり無理があったようです(事実、当町の正面下屋の鬼板「スサノオの大蛇退治」については、実際に作ったのは彫松ではなく岩田冬根であろうと言われています)。
 多くの宮大工や彫刻師が、師匠の下で手伝いをしたり、複数の職人との共同作業をしたりしています。屋台だけでなく寺社建築や仏壇彫刻、寺院の須弥壇などの製作に携わり、空襲で焼け野原となった浜松に建築文化を復活させました。
 戦後の混乱がようやく落ち着いてきた状況の中で、意匠の変更だけでなく、屋台の計画や棟梁・彫師が複数で作業することはごく普通の状況だったようです。
 私見ですが、こと彫刻に関しては絵図面を暫定的に仕上げてから意匠を何にするか決めたのではないでしょうか。
 とはいえ、どのような課程で彫刻が変わって行ったか、その経緯はできれば知っておきたいところです。
 情報をお持ちの方、ぜひいろいろとご教示ください。




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