祭り当日

一、祈願祭

 浜松の凧揚祭は祭神のいない「祀らぬ祭り」である。
 しかし、心のよりどころは地元の町である。
 「地元の町」というのも、昔からの地名にこだわり、その地名で出つづける町が多い。
 行政区画の整理によって作られた「J町○丁目」ではなく、古くからの「K町」「N町」などの地名を大事にする各町の姿勢に私は敬意を払いたい。
 話が横道にそれた。元に戻ろう。地元の町や地域にある寺社は、町の心の象徴である。神道のみ・仏教のみに偏ってさえいない(だから凧印には仏旗の図柄もあれば神社の神紋もある)。
 祭り初日の朝、われわれ東田町は近隣の町と、浜松八幡宮に参集し、今年の祭りの成功と、初節句の子供さんの健やかな成長を祈念する「祈願祭」を行う。
「お子さんが無事育つように」「いい風が吹くように」「凧が力強く揚がるように」「合戦に勝てるように」
 いろいろな思いを胸に祈願を受け、組員・凧揚会員は凧場へと向かう。
※注意 「組員」とは各町で諸事を立ち回っている各凧揚会の役員のこと。別に「その筋」の方ではナイ。
    ピンク(自治会)・緑(組長・副組長)あるいは赤(組長・副組長以外のその他の役)の縁取りのたすきをしているので、浜松では俗に「タスキ持ち」と言う。

陣屋

一、陣屋

 凧を揚げる会場(その昔、大正以前は特定の場所で揚げるものではなかったらしいが)を俗に「凧場(たこば)」と言う。
 かつては和地山町にある旧練兵場跡(現在の和地山公園)で行われていたが、今は中田島の海浜公園を使う。
 各町の凧場での基地、それが「陣屋(じんや)」である。
 陣屋では、組員がその日の風具合を見、各町の揚げている様子をうかがいながら、それに見合った凧を選ぶ。
 また、各町の知人との交流・食事・子供の遊び場でもある。
 戦の合間のひとときの休息所とも言えようか。


陣屋にて出番を待つ凧
毎日五〜六枚の凧を陣屋まで用意する。

一、凧

  凧は、まず大きさで区別される。
 凧の大きさの単位は、帖(じょう、1帖=美濃紙12枚=B4紙24枚)で表される。
 風が強ければ、2帖ほどの小さな凧、弱ければ、風をたくさん受けるために6〜8帖の大きな凧を用意する。
 なお、風の強い日に大きな凧を揚げる際、凧の一部に穴をあけて風通しをよくする場合がある(当組ではあまりやらないが)。
揚げつけ:凧を揚げる瞬間です
今や遅しと揚げる準備をしている凧
ちなみにこの大きさは五帖


  次に、凧の揚がり方。
 風に対して、風を真正面に受け、直角に揚がる(つまり糸が水平に近くなる)凧を「タチ凧」
 それと逆に、風の上に乗っかる(糸は垂直に近くなる)凧を「ノシ凧」と言う。
 凧の重心をどこに置くかで、タチとノシは決まる。揚げるのはノシの方が簡単で、最近は凧場でもノシを見る方が多い。
 しかし合戦となると、風の上でふらふらせず、風に対抗してぴたっと止まるので風の力をより強く生かせる「タチ」の方が断然強い。
 タチの合戦がうまい町はものの3秒で相手の糸をぶち切ってしまう。ノシ凧もテギ使いなど各町の秘儀であっという間にキメてしまうことが多い。
糸先 その1揚げ付け光景




糸先は「凧」の花形。やはり力強さがカッコいい

一、糸

 糸は鹿沼麻の極上糸。浜松ではガラスの粉で相手の糸を切りやすくするということはしない。今では市が祭り会館で一括で作って販売しているが、昔は近所のロープ屋が町の注文を受け、特注で作っていた。
 昔の糸はすごい。何がすごいと言って、糸が50cm以上立つのである。
 嘘ではない。昔の糸は縒りの強さが今よりもはるかにきつかったから立つのである。そんなきつい縒りに堪える麻も、丈夫な糸を縒り上げる腕前を持つ職人さんも今では少なくなった。とはいえ今の糸だって太さが5mm近くはあるから、弱いと言っても非常識なほど丈夫なのだが……(昔の糸は、縒りをきつくするため、今の糸よりずっと細い。)
 そんな糸でも合戦で本当の切り合いともなればほんの2・3秒。合戦の際の緊張感は何とも言えず心地よい。これだから浜松人にとって凧はやめられないのだ。
糸
現在使われている凧糸。
タバコと太さを比べて見ると糸の太さが理解頂けるだろう。


一、糸繋ぎ

  いくら丈夫な糸でも強さには限界がある。
 合戦に負けた糸、緊張の果てにはち切れた糸、繊維と繊維の合間が抜けた糸……
 だからと言ってまだ終わったわけではない。合戦に負けてぶち切れた糸はともかく、手元やかなり近いところで切れた部分、また弱ってきた部分は即座にその場で補修をする。
 これが糸繋ぎ(いとつなぎ)だ。
 糸繋ぎは麻の繊維が鱗状で摩擦力が高いことを利用して切れた2本の糸を復活させる。しっかりと絡み合った2本の糸の繊維は、「天下麻の如く乱れ」のたとえの如く、複雑に絡み合い、抜けなくなる。繋ぎ方にも各町秘伝があり、滅多には余所の町に広まらない。
 合戦の修羅場でものの5分もせずに糸が元通りに復活する。まさしく浜松凧揚祭の「伝統」であり「技術」だ。
糸継ぎ実演1
糸繋ぎの最初の段階
やってる最中はヒ・ミ・ツ
糸継ぎ実演2
普通の状態の糸(下)と継いだ後の糸(上)
だいたいこの状態ならまず糸が抜けることはない。


一、合戦

 浜松凧の醍醐味は、切り合いにある。とにかく摩擦だけで切ってしまうのだから、いかに風を知り、また自在に凧を操れるかが勝負の分かれ目である。
 糸の切り合いの基本的な作戦は二通り。

糸先の図:2
・乗せ掛け
 糸を送っていない凧の糸の上で糸をどんどん送る。すると凧は風に乗って遠くへ行くが、糸は自分自身の重みで緩やかに相手の糸の上へ乗っかりながら送られていく。
 糸が乗ったところには大きな摩擦が生まれ、ピンポイントで相手の糸をすり減らす。

 麻の焼け焦げるにおい。
 白煙。
 地上にいるわれわれにも聞こえてくる「バツン」という音
 「やった、切ったぞ。」喚声が上がる。
 タチ凧の技術を知り尽くした、職人級の仕事だ。
「そらー!気い抜くなよー!」
合戦が始まった糸先はまさに修羅場である。

・吊上げ(つりあげ)
 今度は相手の糸の下にもぐりこむ。
 「ん?あの凧糸目がおかしいんじゃないの?風に対して横向きで飛んでるじゃん。」
 そう思っている相手の組の糸先を驚かすようにいきなり糸を引く。
 凧は風に対してノシて行き、相手の糸を吊り上げる。
 これだけでも相手の凧は揚力を失い、緩やかに下りてしまうが、それだけで容赦なんてしない。
 相手の糸は折れ曲がって弱くなり、十分に出した糸をガンガン引っ張り、やはり摩擦力で相手の糸を切ってしまう。
 力はかかるが、吊り上げが成功したときは、「うまく行ったぞ」という達成感が大きい。
↓トップでも紹介した昭和30年代の凧場(旧和地山練兵場)の様子。 昭和30年代
 今では、会場が手狭になった(一箇所でたくさんの糸が絡み合ってしまう)ためと、「宣戦布告」をする必要性のため、以上の二つの方法を上手に併用して行っている。
 このほかにも相手の糸を切る方法がもう一つあるが、ここでは公表しない(別に反則技ではありませんが、大変な荒業です。どうしても知りたい人は、このサイトのどこかを探すこと。それでもわからなければ東田組に入りなさい)




当町の糸枠

一、糸枠

 糸巻きのことを糸枠(いとわく)と言う。
 あれだけの大きさの凧を揚げるのであるから、用意する糸の長さも1000〜2000mぐらいは必要になってくる。普通の凧の糸巻きを想像してはいけない。
 小さい糸枠を使う町でもホースリールの大型のやつ。通常はリヤカーをぶった切ったような大きさの糸枠を用意する。
 合戦が始まると、糸を絡ませるために糸枠はあちらこちらと走り回り、そして糸先と絶妙の連携で糸を出したり引いたりする。
 あまり目立たないとはいえ、熟達の知識が要る重要な役回りだ。

これが東田組の糸枠。大きさは人の足と比べてみてください。
取っ手のところにテギが置いてありますね。




一、テギ

テギ:1  風が弱く上手く上がらないので、大勢で力をあわせて糸を引きたいとき。
 また、合戦の最中で糸をすばやく引きたいとき。
 そんなときに活躍するのがテギである(普通は「転機」と書くが、中心部のやや西よりの町の一部では「手車」とも書く)。

 テギとは、砲金あるいはステンレス製の滑車で、どの組も一挺は持っている。
 糸を引く際に、一箇所にこのテギを掛け、組員が力をあわせて糸を引く。
 テギを持つ係の人の顔が真っ赤になり、全員で糸を引いている力がテギに行っているのがわかる。
 組員が次々に糸を持ち、走って引き、またテギ近くまで走り、再び糸を引く。
 「いま、組員が全員で凧を揚げているんだ。」
 「よその町に負けてなるか。」という思いでいっぱいになりながら糸を引く。
 そして、弱い風にも凧は揚がり、切り合いの糸は激しく引かれていくのである。
テギ:2


まさに使われている最中のテギ。
テギ係はちょっとでも気を抜くと、滑車の部分に指をはさまれ、大怪我をするので、大胆さの中にも繊細さが要求される。
左は俗に立ちテギといわれるテギ使い。切り合いの際に時々見られる。テギを使って相手の糸を切りまくれると、大変気持ちがよい。


一、先回り

 凧は時として落ちることもある。

 合戦に負けたり、風の強さで糸がはち切れたり、あるいはバランスを失うなどして揚力をなくしてしまったり……
 そのとき、凧を回収に回るのが先回りである。
 普段は揚がっている凧を凧場の外からじっと眺め、すわ一大事となれば2キロ先でも3キロ先でも走って追いかけていく。
 たとえ凧が海に落っこちても関係ない。骨だけになった凧をとにかく回収に行くのである。
 特に初凧はお施主さんからの預かり物。どんなにぐしゃぐしゃになっても拾いに行く。
 はっきり言ってこの仕事はつらい。しかし先回りの人がいないと凧は立ち動かない、とても大事な裏方さんたちなのである。
昭和40年代後半〜50年代初頭と思われます。





山崎源一「浜松・凧・屋台」より
おまけ:かつて東田町が8帖凧を揚げた時の揚げつけの写真ですが、今の東田町と微妙に違うところがいくつかあります。それはどこ?

んじゃそろそろ夜の仕度でもしましょうかい。

戻る。