夜 の 浜 松
屋 台 と 練 り と

一、屋台

降り龍 昇り龍  屋台はある町もない町もある。一台建造するのに最低でも八桁はかかるから、当然の話である。
 浜松の屋台は凧を運ぶ大八車を飾り立てたのが起源と言われる。大正年間に幇間だか役者だかの創始とも言われているが、明治中期の新聞記事には既に屋台に関する記事が出ているようなので、明治期にはすでに屋台もあったかもしれない。戦前の屋台のほとんどは戦災で焼けてしまったが、戦後作られた今の屋台にも非常に凝った作りのものが多く、他所の町内にも立派な屋台が多い。(でももちろん自分のところの屋台が一番だと思う。)
 この日のために、彫物を磨き上げ、お囃子の稽古を続け、引きまわしの準備を続けてきたのである。
 御簾内では、囃子方の子供たちがこの日のために稽古をしてきた囃子を披露する。今では囃子方というと女の子の舞台のように見られているが、以前はほとんどの町が全員男の子で囃子方を組んでいた。現在でも櫻組(西上池川町)さんや尾組(尾張町)さんなどでは、すべて男の子で囃子を編成している。当町は大太鼓のみ男女とも、締太鼓・鼓・大鼓・鉦は女の子。
 ある町は黒御簾。またある町は民謡。共通するのは「三味線が入る」と言う点。屋台の祭囃子としては珍しい形態である。自町だけでなく、いろいろな町の囃子に耳を傾けるのも面白い。



←東田組自慢の柱の昇龍・降龍。→
下の説明にもあるが、正面の柱に巻きついている。

東田町屋台紹介(リンク先になっているところはクリックすれば画像をご覧いただけます。)
重層入母屋造(軒唐破風あり)
建造昭和29年
棟梁:平野 孝(掛塚)
彫刻:彫松(名古屋)
二層鬼板・懸魚正面………棟:雲龍   軒唐破風:蛟(みずち=飛龍)
見送り……棟:麒麟に瑞雲 軒唐破風:蛟に波
一層鬼板・懸魚正面:素戔嗚尊(スサノオノミコト)の八岐大蛇退治
見送り:龍と亀
欄間一層正面:恵比寿・大黒と力神   左右:牡丹に唐獅子   見送り:牛若丸と弁慶
二層正面・見送り:松竹に鶴    向かって右:瑞雲に鳳凰  左:松に鶴
木鼻脇最前列:獏  その他:獅子頭
御簾脇(向かって右)昇龍・(左)降龍
柱に巻きついた形で彫られてある。
脇障子右:鯉の瀧のぼり
左:獅子の子落とし
高欄一層:擬宝珠高欄  二層:跳高欄
腰彫十二支(前面に龍虎・脇に残りの十支)
幔幕狐の嫁入り・内幕型

出発直前 出発前に屋台の提灯に明かりを灯したところ。
お三味線のお姐さんの調べが合ったら、子供たちも屋台に乗る。
いよいよ出発だ。
先導車と組員
奥に見える高張提灯が東田組の先導車。
      画像提供:まかしょう氏
先導車
上棟当時落成直後の屋台(昭和29年の浜松まつりパンフレットより)。
この当時、まだ下座の唐破風に懸魚はなかった。
鬼板も現在のスサノオではなく、唐獅子のようである。
      資料提供:通っちゃ
昭和30年ごろ、恐らく落成記念と思われる。
今は銅板に隠れて見えないが、箱棟にも東田町の
町名と宝珠の玉が見える。
落成記念


一、練り

 「練り」とは、太鼓と行進ラッパに合わせて「おいしょ」「やいしょ」と掛け声をかけて町内を練り歩くことである。また、その練りの途中・あるいはお施主さん方のお宅の玄関先で景気づけの押しくらまんじゅうをすることも指す(この押しくらまんじゅうになった状態を「練りをつぶす」とも「崩す」とも言う)。
 「激練り」という言葉はいつ頃から定着したのか、旧陸軍の「駆け足行進の譜」に練りの掛け声を合わせたものをレコード化して売り出した際に、適当な名前をつけた結果、この言葉がさも正式名称であるかのようになってしまったのだという話を聞いた(詳細は未確認)。
 本当は単に「練り」と言うだけで十分なのである(もし上の話がホントだとしたら、マスコミもレコード会社の陰謀に簡単に引っかかっちゃいかんよなぁ……)。
   市内中心部を走り回る練りは、大きく分けて二つの役目がある。
 市内中心部を「ご近所」と言いにくい町には、夕方に「連合練り」を行う所もある。
 更に夜が更けると、町内の初節句の家や、篤志家の家を一軒ずつ練ってご挨拶に行く。
 初の家や篤志家の家でご接待をいただき、また翌日の凧への鋭気を養うのだ。


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