浜 松 凧 揚 祭 の 起 源
「定 説」 へ の 挑 戦

「浜松まつり」といえば、いまやゴールデンウィークの人出予想の常連。

その凧揚祭についての最古の資料は江戸中期の書物『高林家資料』です。

   同(四月)十一日  勘蔵浜松へ風巾買ニ遣ス 四尺四方四百七拾弐文払

 この一文は、有玉下村(現有玉町)の庄屋高林家の八代目の当主で、本居宣長に学んだ国学者でもある方朗(みちあきら)が、寛政元(1789)年に端午の節句を前に凧を購入したという日記の書き抜きです。この頃には端午の節句に凧を揚げる風習が遠州では定着しつつあったのでしょう。
 と、ここまで書くと、「あれ?最古の資料は『浜松城記』じゃないの?」と思う方も多いでしょう。

 室町時代の永禄年間(1555〜1569)遠州曳馬城(現在の浜松城)城主飯尾豊前守に長男義廣公が誕生。世嗣誕生を祝って入野村(現在の浜松市入野町)の郷士佐橋甚五郎、義廣公の名前を大書した大凧を城下で揚げる。のちの城主堀尾帯刀が城下の民に端午の祝いとして勧めたこともあり、以降浜松では長男の誕生を祝う「初凧」を揚げる風習が行われるようになった。
 また、時代が下ると共に祭りもだんだんと華美になり、町の紋様を描いた美濃紙二帖〜八帖の大凧を端午の節句の頃に揚げる風習が定着、町ごとの糸切り合戦も行われるようになり、現在の勇壮な浜松まつりになった。
 多くの書物で『浜松城記』を引いてこの定説を語っています。しかし、ここで敢えて異論。
「果たしてこの『浜松城記』の起源説話は本当の起源なのか?」

 この『浜松城記』を初めて取り上げたのは、大正年間から昭和40年代にかけて活躍した郷土同人誌『土のいろ』ですが、実は近年この『浜松城記』そのものの真偽が疑問視されるようになってきました
 私はこの説話を「諸説のうちの一つ」だとは思います。しかし、すでに十年来も郷土史家たちから疑問の声が挙がっているのに、いまだにこの「定説」が定着しているのはなぜなのでしょうか。
「それじゃ、『城記』の何がおかしいの?」と思われた方は、こちらをクリック。



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