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あの時、つらかったよね。<AC日記>;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;; いい本との出会い(01.5.15) うつに関するいい本に出会った。
野村 総一郎
星和書店 (1997/01)
売り上げランキング: 107,098おすすめ度の平均:読みやすい1冊
あとがきに、『どうしてこんなよいひとたちが、苦しまなければならないのか』という思いで書いたとあって、優しく、易しいうつ病の本となっている。
読んでいて、あ、わたしわたし、と何度も思った。「自分が正しいと頑固に思っている」と批判されることが多いけれど、それは自信(過信)の現れではなくて、正しいとか正しくないとかを状況から判断する能力に欠けているから。
わかる。わかる。自分に自信がなくて、いつも不安で、だから「そういう考え方や見方もあるのか」と受け入れる余裕がない。
でも、それは傍から見ると、きっと「自分が絶対正しいと思っている」になってしまうのだ。なんぎやなぁ。
でも、「気づき」は大切な一歩だからね。
変わりたい方向へ、少しずつでも変わっていけたら。すーっと楽になる(00.10.11) 子どもの具合がいまいちで、ぐずってそれをあやして何日か。
疲れても疲れたと言えない。
自分のしたいことが何もできない。
それどころか、家事さえも。
すごくしんどくなって、子どもを虐待する人の気持ちがわかるような気がしてた。
どちらかというと、私の場合はネグレクト。育児放棄。
泣いていても、これ以上だっこできない、勘弁してよ、という思い。
余裕のない子育ての日々。
頼れない自分の性格。
相方にも迷惑をかけ、嫌な思いをさせた。
昨日、今日とリンドバーグを聞いている。
だっこしながら歌ったり、眠る子どものそばで歌詞カード読みながら声を出さずに歌ったり。
びっくりした。
こんなに楽になるなんて。
すーっと楽になった。昨日までずーっと眉間にあったしわはいずこへ、って感じ。
好きな曲を聴きたい時に聴く。
子どもが生まれてから一度もしてなかった。
ウクレレも弾いてない。もう弾き方忘れちゃった。
それが(それも)こんなストレスになっていたなんて。詞も、昔も今も私に力をくれる。
カウンセリングに行こうと思っていたけれど、今の気持ちになれたから、しばらくはいいかな。
それとも、調子のいい時に行く方がいいんだろうか。
それも、調べよう。前向きなうちに。親は楽譜(99.4.3) 土曜の昼下がり、知人にカードを書いて、ふとピアノを弾きたくなった。
バッハのプレリュードを拙いながらも弾く。大好きな曲。
メロディは頭に入っているし、指もほとんど覚えていて勝手に動く。
でも、楽譜を見ないとわからなくなる。つかえる。間違える。
何度も何度も弾く。
ちょっとずつ、ちょっとずつ、楽譜に頼らないで弾けるようになる。
楽譜は何も言わない。けど、そこには「弾きたい」と思わせるものがある。
それを見て、弾こうとする。難しい。でも見ながらでも弾けたら嬉しい。
だんだん、見ないで弾けるようになりたいと思う。やってみる。
失敗。その繰り返し。
時々うまくいく。嬉しい。楽譜は何も言わない。
うまくできても。失敗しても。
ただ、そこにあって、楽譜としてあって、じっと見てる。聞いている。
もし、自分が親になることがあれば、こういう「楽譜のような」親になれたらいいな、と思った。
こういう親だったらよかったか、と言えば、よかったかもしれない、そうだったかもしれない、よくわからない。けれど、今「こういう親になりたい」というビジョンが見えたことは嬉しい。共依存(99.3.31) 読んだ本に、共依存の人がどうしてしがみつくかが書かれていた。
ACは大地にしっかと足をつけている実感がない。
足下が真っ暗で何もないイメージ。落ちていく恐ろしさ。
だから、しがみつく。
目から鱗が落ちた。
しがみつく手を離すようにするのではなく、大地があること、それを実感できること(信じること)が大事なんだ、と思った。アディクション(嗜癖)(99.3.31) 荒れた唇。
風邪ひいたからか、と思っていたけど、違うことに気がついた。
「過食」「暴飲暴食」の影響だ。
先週、鬱がひどくてどうしようもなかった。
いつも笑いこけているCM見ても、心も顔もぴくりと動かない。
感動がなくなってた。感情がなくなってた。
どうでもよかった。消えてしまいたかった。
何かが欠けているのが苦しかった。欠けたものをうめたい、と思った。
心が満たされないとわかっていて、食べ物に手をのばす。
食べている間は満たされるかも、という希望?に酔えるから。
一番ひどい気分の時は、「かりんとう」をばりばりと食べる。
大学1年の頃の私の主食。気持ち悪くなるとわかっていて、だから、それを選んだんだと今は思う。
当時と今とで違うこと。
当時はアディクションという言葉もACという言葉も知らず、ただただ苦しくて、自虐的にかりんとうを食べつづけ、周囲の人に背を向け、親しくなれそう、という人にはしがみついた。
ずっと苦しかった。
今は、「ああ、こういう(かりんとうばりばり食べずにいられない位)状態なんだ。つらいな、しゃーないな」と思える。
ずっと楽になった。
気分もよくなって、唇に残る「自暴自棄」の跡。
OK、OK。たまにはこんな時もある。人間だもの。
また「あれ」が来た時も、そんな風にやりすごせたらいいよ。ね。
がんばりすぎず、ぼちぼちゆこう。ボランティアとAC(99.3.26) ACに関する本を読んでいて、はっとした。
そこに出てきた一人の女性は、ボランティアに熱心で、海外の子どもの里親になったり、骨髄バンクに即登録したり、痛ましい人がいると思うとつらくて動いてしまう、とあった。
彼女はそれを「自分がいてもいい」と思うための手段だった、と自覚していた。
私も同じだなぁと思った。
献血に行って、私の血液が誰かの役に立つ(と思い込む)ことで、自分がいてもいい、と肯定したがっている。
これは誰かの役に立たなければいる価値がない、と思い込んでいる裏返し。
何もできなくても価値があるのに。
と、本の中の彼女にはそう感じた。こんなに優しくて一人で耐えてきていじけもせず、痛ましいのはあなたなのに、と感じた。
でも、自分にはそうは思えない。そこがACなのかもしれない。いじけてるし。
怖いのは、ひとに対しても「役に立たなければいる価値がない」という目で見てしまわないか、見てないかということ。きっとしてる。
だから一緒にいて居心地がよくないのだろう。落ち込みそうな現実だけど、現実。
それに今気付いたから、これから変えていきたい。いまから、これから。宴会の次の日(99.3.16) 先週末、宴会があった。バイクのMLの仲間の皆さんと。
いっぱい笑って、別れにしみじみして、充実した時間だった。
次の日の帰り道、楽しかったなぁと思ったら泣けてきた。
そういえば「みんなが楽しいようにしなきゃ」というプレッシャーがなかったことに驚いて。
以前は周りの顔色をうかがって、つとめて楽しい話、面白い話をするようにしてた。
「にこにこして皆の話を聴く人」は私の対極で、あこがれで、そうなれない自分に後でまた落ち込んでいた。
黙ってる自分では一緒にいる人がつまんないんじゃないかと不安だったから。
そんな気持ちではしゃいでも、きっと周囲は楽しくなかったろうに、そんなことは思いもしなかった。
でも、先日は違った。
みんな私が頑張る必要もないほど「一人で、皆で楽しめる」人達だったから。
それに「頑張る私」ではなくて「私」でOKな人達だったから。
そういう場にあまりいたことがないからその時は気がつかなかったけど、ほんとに心地よかった。
やさしい気持ちになれた。(ような気がする)
私もそういう空気を作り出せるようになっていきたい。
ありがとう>みなさままた泣かせて泣いた(99.3.1) 「変だよ」
相方にいわれてしまいました。
「プライドが高すぎて、できないことを認められなくて、指摘されると怒る」
「完璧じゃないとだめだと思っていて、完璧にできるはずだと思ってる」
「完璧にできないからって、結局やらないですむように立ち回っている」
そーなの。
自転車に乗れるようになるまで、という例え話が浮かんだ。支えてもらって(実は手を放してたりもするけど「見」守っている)いつしか支えなしで乗れるようになった人。「支え、もういらない(もう充分だから)」
支えがなくて、でも「乗れるでしょう?(乗れるはずだ)」に「うん」とこたえることを要求されてきた人。
後者は、乗れるかどうかではなくて、乗れるとこたえられるかどうかが重要視されてることを意識しないで感じとってた。
「乗れない」と言えない雰囲気。
「乗れるように手伝って」と言えない雰囲気。
「乗れないの」と言えない自分。
「教えて」「手伝って」と言えない自分。
「乗れるかも」「たぶん乗れると思うけど」なんて言っちゃう自分。
乗れないと「この自転車が悪いから」「ちょっと調子悪いから」なんて責任転嫁する自分。
「乗れない」という言葉が恐くて恐くて口に出せない自分。「えっ、乗れないよぉ?(ふつう、乗れるよ)」ではなくて、
「乗れないの。そうなんだ。ふーん」という雰囲気があって初めて「乗れないの」と言える。自分の弱さできなさ未熟さが、批判の対象にならない場所。
そこでやっと「ありのままの、認めたくない自分」を受け入れることができるのだと思う。
そんな場所は実はいっぱいある。
でも、幼い頃の、「三つ子の魂」はなかなか強固。
ありのままの自分では受け入れられないという刷り込み。大丈夫。
受け入れられる、場所もある。
受け入れられない場所もあるけれど、そこが居心地悪いなら、場所を変えてよいはず。
それは逃げではなくて、選択。
一度切りの人生を、大事にしてゆこう。ACって何?('99.1.3) ACって何ですか?という質問を受けました。
アダルトチルドレンの略としてこのサイトでは用いています。
機能不全の家庭で育った子どもが大人になった時、生きづらさを感じたり、親にされて嫌だったことを自分のこども(や友人、恋人、配偶者)にも繰り返してしまう(例えば精神的、肉体的虐待、子どもの遺棄など)、人間関係を円滑にいかせることが困難な人をさしています。
私は自分の過去を振り返ってみて、自分はアダルトチルドレンだったと思います。だったというか、今もだけど。
ただ、自覚することは癒しへの第一歩。
温かい人間関係の中で、少しずつ幼い頃に学ぶべきことを学び直していると感じる昨今です。
誰にでもありのままでいい居場所があることを、今苦しい思いをしている人に伝えたい。おこがましいけど。
一番伝えたいのは、実は、私自身。アダルトチルドレン('98.11.9) 昨夜のテレビで、子どもの頃に負った傷と向き合えないままそれをかかえて今をいきいきと生きられない人々がとりあげられていました。
それを夫婦で見ていて、話をしていて、泣いてしまいました。
多かれ少なかれ誰も傷をかかえていて、それを見つめられるかどうかは手を握ってくれる人がいるかどうかではないかと私は思う。
「つらかったのね」と言ってくれる(わかってくれる、でなくていい)人の存在は大きいです。
感情にいい悪いがあると思い込んでいた私。いいこを演じてた私。
素直に泣けるようになった今がとてもいとしいです。
将来子どもができた時、彼(彼女)を私の顔色をうかがうような子にはしたくないです。
できるかな。