星にとどけ、ベルカント

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相良・御前崎地方の方言(村語)について

              2004年05月26日


     相良・御前崎の位置と特徴

 この「村語辞典」に載っていることばのふるさと相良・御前崎について、ご 存じない方のために簡単な説明をしておきます。


 静岡県は東西に長い県で、江戸時代の東海道五十三次は、静岡県にその5分の2に当たる22がありました。東京・神奈川・静岡・愛知・三重・滋賀・京都の7つの都府県にまたがっていますから、そのうち静岡の部分がいかに大きいかわかります。東海道線も東の神奈川県境(熱海・湯河原間)から、西の愛知県境(新所原駅のすぐ西側)まで180kmほどあります。また南北も長く、ついでに言えば日本一の標高を 誇る富士山(3776.3m)の頂上から海岸線まであるわけで、日本で一番上下に長い ?県でもあります(富士山の裏側にある山梨県には海はないのですぞ。どうだ、 まいったか)。

   御前崎市(おまえざきし)
 静岡県は海岸線も長く、伊豆半島が相模湾と駿河湾を分かち、御前崎が駿河 湾と遠州灘を分けています。この御前崎の岬の部分と、その西側の台地、遠州灘に沿った平坦地を市域に しているのが御前崎市です。面積は66ku、人口は約3万5千人。
 市中心部の池新田は、江戸時代初期に新野池(にいのいけ)を干拓して作られた村(地元では、3人の乞食が拓いたと伝説がある)でしたが、土地がやせており、また、海岸線は砂丘のため、地引き網で鰯などを捕る程度で、県内でも最も貧しい村の一つでした。60年代から佐倉地区に中部電力浜岡原発の発電機が4基設置され、そのために人口も増え、90年代後半にはイオンなどの大型店が進出し、発展しました。しかし21世紀に入り、発電機が次々に放射能漏れなどの問題を起こし、一時は全部が停止してしまう事態にまでなり、周辺住民を不安に陥れています。
 一方、東南の旧御前崎町は、70年 代までは健康な男子の大半が漁師として海で活躍していましたが、二百海里問題 ・国民の魚離れ・後継者難などから漁村としての活気はなくなってしまいました 。現在はお茶とメロン・花卉(かき=草花)園芸を中心にした農業と、灯台と近年盛んになって きたウィンドサーフィン(ボードセーリング)、それに新鮮な海の幸を売り物に した観光が町の2大産業になっています。しかし、2004〜2005年に国民宿舎と、地区内最大だった御前崎サンホテルが次々に廃業し、民宿も後継者が村を出てしまうなどで少なくなってしまいました。町を名乗っていても商工業はほとんどありませ ん。港に近い埋め立て地に、外資系の工場などが誘致されていますが、新しい企業は従業員数が少ないので、町を活性化させるまでには至っていません。
 御前崎市は、1940年に町制施行した池新田町が1955年佐倉・比木・新野・朝比奈の4村を合併して浜岡町になり、1955年に白羽村と御前崎村が合併してできた御前崎町を2004年4月に合併して成立しました。漁業・水産加工・観光などの従事者が多い御前崎 地区は、住民も派手で見栄っ張りでおおっぴらな開放的な人が多いのに対し、お茶・たまねぎ・大根などを作る農家が多い白 羽地区は土地が狭い上にやせていて、貧しい農村地帯だったため、地味で野暮っ たく、しかし純朴で勤勉な人が多いと言われています。かつては男衆が何ヶ月も海に出ている家庭が多かったため、婦人の力が強く、女性の消防団まであり、村の女衆なら都会の男に負けないといわれたこともありましたが、そうした伝統はだんだん薄れてきています。n
 旧御前崎町へは、東名高速相良・牧之原(さがら・まきのはら)インターから 南東へ20km、車で25分くらいです。東名吉田からも行けますが、国道15 0号線は信号が多く、季節や時間帯によっては渋滞も激しいのでかなり時間がかかります 。バスは静岡駅から東名経由の特急路線バスで1時間5分、相良営業所で御前崎行きに乗り換え約30分です。静岡駅から直通のバスがありましたが、2007年4月に廃止になりました。御前崎へ行くバスは本数が少ないので、なんじ君   であらかじめ二間を調べておくといいでしょう。

    相良町
 御前崎町の北側の駿河湾に沿ったところに相良町(さがらちょう)がありま す。人口は2万7千人ほど。数年前までは榛原郡の8つの町の中で一番人口が多かったのですが、近年北隣の榛原町(はいばらちょう)や皿のその東の吉田町(よしだちょう)が人口増加の傾向にあるのに対し、相良町の人口は漸減傾向にあり、吉田町に抜かれ、榛原町に抜かれるのも時間の問題になっています。
 相良は江戸時代の9代将軍家重(いえしげ 1811〜1761)と10代将軍 家治(いえはる 1737〜1786)の時代に老中だった田沼意次(おきつぐ、1719 - 1788)の城下 町でした。田沼家の出自は下野(しもつけ=栃木県)の田沼ですが、紀州徳川家に家老として使え、7代将軍家継(いえつぐ=1709〜1716が早世ししさらに、兄の相次ぐ死亡で紀州の殿様になっていた吉宗が八 代将軍になり、田沼家も一緒に江戸に上り、意次は将軍の小姓になりました。吉宗の息子で重傷の知的障害者だった9代将軍家重の言葉 を理解できたことから出世し、息子の意知(おきとも)とともに親子で絶大な権 力を握ったものの、飽くなきまでに賄賂(わいろ)を強要したことで幕府の内外 から恨まれ、さらに浅間山の噴火とそれに続く凶作、最後に佐野善左衛門による 意知の暗殺でとどめを刺され、失脚しました。相良城は江戸城をしのぐとも言わ れ、「田沼様には及びはせぬが、せめてなりたや公方(くぼう、将軍のこと)様 )といわれたほどでしたが、失脚とともに相良城は没収され、壊されてしまいました。
 しかし、綱吉やその母のおたま(桂昌院)と組んで「生類哀れみの令」を人 民に押しつけた柳沢吉保(やなぎさわ・よしやす)とともに、江戸時代の悪玉の 一人とされる田沼意次ですが、地元には善政を敷き、印旛沼や手が沼の干拓など の殖産事業を行い、また家光以来の厳しい鎖国の中で、西洋の文化の流入を大目に見て「蘭 学」を勃興させるなどの貢献もあり、地元では彼を再評価する動きが活発です。
 その後、江戸時代の末期に、再び40年ほど田沼氏の城下町になっていまし たが、明治時代に鉄道を回避したため、発展が遅れました。95年3月の東名高 速、相良牧之原インターの開設や、白井の工業団地などに希望が託されています が、寂しい田舎町の感じが拭えません。
 相良町は1889年に、今は市になっている焼津・熱海・伊東・浜北などよ り遙かに早く町制を施行しました。1950年に菅山村(すげやまむら)を編入 し、1956年に地頭方(じとうがた)・萩間(はぎま)2村と合併して現在の 町域になりました。旧相良地区と地頭方に商店街があり、特にバスが通る中央通りは、幅の広い歩道とシャンデリア風の街灯を整備してありますが、規模の小さい商 店が多く、あまり活気がありません。 かつては郡内で一番商業が盛んな町でし たが、それらの商店主たちが、大型店の出店に難色を示し、そのため、相良と境 を接する榛原町や浜岡町にはここ2,3年のうちに新しいショッピングセンター が開店したのに、相良は「閉店街・シャッター通り」と陰口される、歯の抜けた ような寂しい町並みになってしまいました。
 TDK, 三和シヤッター、スズキといくつかのの工場もあり、農業はお茶が中心で、牧之原地区 には一望に茶園が広がっているところもあります。海岸に沿って漁港もいくつか あり、しらすを中心にした沿岸漁業が行われています。またこの海岸は海藻の宝庫としても知られています。  相良町の海岸は、遠浅の砂浜から岩の多い磯まで変化に富んでおり、中心街 の南東に広がるサンビーチは、バブルの頃はきれいな海水浴場として全国で5本 の指に入る観光客を集めました。この海岸で、ゴールデンウィークの頃には草競 馬や凧揚げ合戦などのイベントがあります。  相良・御前崎から大井川の上流までの広い範囲が榛原郡(はいばらぐん)で 、現在8つの町があります。真ん中あたりにあった初倉という村が、1963年に島 田市に編入したため、北と南に4町づつ切れ切れになりました。この南の方の吉 田・榛原・相良・御前崎の4町を榛南(はいなん)地区といっています。       


 方言・古語・共通語

 このページは多くの方がごらんになっておられるようで、ご意見やメッセー ジをいくつか頂きましたが、その中に、「これは方言とはいえないのではないか 」というのがいくつかありました。いきなり下品な言葉が出て恐縮ですが、女性 のあそこを表す俗語「つんびい」は、古語の「つび」から来ており、方言とはい えないと言うものです。広辞苑には確かに「つび」があり、現在ツボと呼ばれて いる貝と、女性のあそこの意味に使われ、後者では漢字で、尸に朱と書くのだそ うです。門構えに也という字も使われていますが、現在のユニコードでも、さすがに両方ともないようです。 しかし現在東京あたりで「つび」といっても通じないでしょうし、ましてや「ツンビー「は完全な方言といってもいいでしょう
 調べてみると古語に由来する方言は意外に多く、「大きい」の意味の「いか い」は、古語の「いかし」から来ています。ただ古語ではシク活用なので、連体 形は「いかしき」で、「いかしき世界」などと使いますが、方言では「いかい世 界」です。また、「おぞい」という語を、「古い、汚い、悪い、ぼろい。天気が 悪い」の意味に使いますが、広辞苑には「おぞし」という古語のク活用の形容詞 が2つあり、「鈍し」と「悍し」の漢字が当てられ、前者は「にぶい」、後者は 「恐ろしい」の意味だと出ています。天気が悪いという意味では、特に嵐や時化 の時に使うことから、明らかに後者から来ているのでしょうが、あとの意味は両 者が混合してで来たものなのでしょう。しかし、広辞苑に出ているからといって も、東京あたりで「今日はおぞい天気ですね」などといっても、理解できる人は 少ないはずです。
 「ちゃっきり節」以来、静岡の専売特許みたいになっているあの「 ずら」も、実は広辞苑に出ていて、「ずらむ」の訛りで、完了+推測を表すと書 かれています。静岡以外に、北陸を除く中部地方の東半分、静岡県の駿河・伊豆 地方と山梨・長野県で使われています。土佐の方では同じ意味の「ずろう」とい うのがあるそうです。 近年はテレビの影響で、地方の出身者が面白半分に使った方言が、全国区版 になる例もかなりあります。「でかい」などというのもそうですし、現在問題に なっている「ら抜き言葉」なども、かなり広い範囲で使われていた地方の方言か らでたものでしょう。
 遠州では五段活用動詞の可能形にも「れ」 を入れ、「読めれる」、「書けれる」式の言い方があり、これも方言だと思っていたのですが、何気なくインターネットをブラウズしていたところ、「書けれる」という言葉が意外に多くあり、しかもほぼ全国で使われているのにはびっくりしました。流行歌の歌詞などによく出て来る「愛してる」、「歌ってる」式の。“い抜き”や、「作らさせていただきます」のような”ら入り」言葉も結構耳にしますし、北関東の出身の人が、「今日はお母さんはきないの」というのを聞いたこともあります。アクセントも違う市、前後関係から「着ない」ではなくではなく「来ない」の意味のことは明らかでした。また、語尾が「ろ」 である一段活用動詞の命令形が、「食べれ」、「起きれ」といいますが、これは 東北から九州までかなり広い範囲の方言のようです。日本語の動詞には、五段活用、一段活用、サ変、カ変の四つがありますが、よほど言葉に気をつけている人でないと、きちんと使い分けることが難しいのかもしれません。
 明治時代から時の政府の方針で、「標準語」が推奨され、方言は下品な言葉 とする風潮が植え付けられ ました。戦後は「共通語」と名前が変わりましたが、地方の出身者で方言に劣等 感を持っていた人は多く、自殺や殺人事件に至ったこともあるようです。  逆に現在ではテレビなどの影響で、子供は方言を使わなくなりました。しか し旅行から帰ってきて、バスに乗っているおばあさんたちが、遠州の方言を使っ ているのを聞くとほっとしますし、お互いに遠州弁でおしゃべりできるというの は、それだけで何倍もの親近感を感じます。

      方言とアクセントについて

 静岡県の方言は、山梨・長野などの方言と似ていて、アクセントは標準語に 近いと言われています。「あめ」、「はし」などの語句のアクセントが関東と関 西で反対になっていることは、中学の国語の教科書にも書いてあるのでご存じの 方が多いと思います。上方落語の桂米朝(かつら・めいちょう)という師匠は、そうした語句が含まれている文を読ませ、東京式のアクセントをしたものは、決して弟子にとらなかったそうですが、語彙よりも抑揚の方が、方言を特徴づけているともいえます。掛川あたりが江戸と京都の中間に当たるわけで、関東の ほうに少しよっているものの関西式のアクセントもあるということになります。 勿論この地方独自のアクセントもあります。
 いわゆる東海地方、愛知・岐阜2県は独特の方言を持っていますが、語彙な どから見ると、遠州の方言とかなり共通するものを持っています。関東の馬鹿、 関西の阿呆に対する名古屋の「た〜け」は遠州でも「たわけ」として用いられて いますし、「だに」、「だで」、「だら」などの助詞や助動詞も共通して使われ ています。なお、最近は役所の都合で、三重県を東海地方、あるいは中部地方に 入れることが多くなりましたが、三重県でも一番名古屋に近い、近鉄の特急電車 なら20分もかからずに着いてしまう桑名でも、言葉は見事な関西弁で、名古屋 の影響はひとかけらもないそうです。それに三重県の人も、野暮ったいというか みみっちいというか、よく言えばけなげで倹約好きの名古屋の方に付くより、伊 勢神宮もあることだし、近畿地方の一員でありたいのではないでしょうか。
 小生は小学校5年から東京教育大学の付属盲学校で学びました。両親はど ちらも相良の出身。祖母は明治維新で江戸から相良に落ちてきた旗本の子孫で、 祖母の言葉と両親の言葉はいくらか違っていましたが、子供の頃は相良のアクセ ントで過ごしました。東京に行く前は平塚の盲学校にいましたが、当時神奈川県 も相模川より西はかなりの田舎で、関東特有のいわゆるべえべえ言葉だったので 、それほど方言も目立たなかったのですが、東京いいってからはほとんどが東京 の、しかもかなりいい家柄の人たちでしたから、小生の方言は嘲笑のタネになり ました。まあ、盲人を始め障害者というのは、自分がハンディを背負っているの で、他人の欠点・ミスを見つけると「ほら見たことか」ところさらに揚げ足を取 る傾向があるのです。英語で患者のことをpacient(辛抱強い)というそうです が、障害者はどうしても自分の思うようにならないので、短気でわがままです。 みなさんも障害者のそういった行動に腹が立ったことがあると思いますが、人間 誰しもいつか障害者にならないとも限りませんし、また若死にしない限りは間違 いなく老人になります。そうするとみんな短気でわがままになるのですから、ち ょっとのことは辛抱してください。、本題のアクセントですが、一番目立つのが3音節の一段活用動詞「食べ る」、「起きる」などです。終止形でべる、きると発音します。また汽車・電車・列車・自動車はそれぞれしゃ・んしゃ・っしゃ・じどうしゃのようにいいます。地名でも東京と同じ読み方でアクセントが違うものがあり 、例えば堀切はりきりです。
 おもしろいと思ったのは、バスの車内の放送だけではなく、JRでも地元に 配慮して?静岡や浜松の駅の構内放送は「4番線のっしゃは」と地元の発音を使っていることです。あの声の主のオネエチャンは 、地元の人なのか、それとも東京あたりの人がJR東海の指示で、あのアクセン トでしゃべっているのか興味があります。      村語のイメージについて  上に述べたアクセントについては、それぞれの単語についてのことになりま すから、辞典に載せた単語の延長といってもいいかもしれません。しかし、地方 の言葉には、単なる単語の寄せ集めではない、もっと気質的な違いもあります。  まず、文法上の問題があります。もちろん関西弁も津軽弁も、日本語には違 いはありませんから、シンタックスが変わるとか、別の品詞があるわけではあり ません。しかし例えば共通語に促音便というのがあります。ア行・タ行・ラ行な どの五段活用動詞で、連用形に「た」が付くとき、イ段の活用語尾が「っ」にな るものです。これが関西弁では「っ」のかわりに「う」になり、「買った」が「 買うた」になります。発音する場合は「こおた」となります。つまり、関西弁に は共通語にない「ウ音便」があることになります。
 村語には、そうした共通語との大きな文法事項の相違はありませんが、語句くによって文法に関わりのあるものがあります。例えば「〜したでしょう」とい う意味の「つら」は、撥音便の動詞では「ずら」になります。書く→かいつら。 やる→やっつら。読む→よんずらl。見る→みつら。
 つぎに各方言には独特の音韻があります。東北ではシとスの区別が曖昧です し、逆に四国の一部では「じ」と「ぢ」を区別するところがあるそうです。名古屋弁ではaiの音列が英語のhaveの、あのaとeの中巻音になります。鹿児 島では、共通語からはすっかり消えてしまった「くゎ」の音があり、それを含ん だ語を発音させてよそ者を見つけだした話は有名です。学校の寄宿舎で小生と同 室だった人に大分県の出身者がいましたが、大分では「せ」を「しぇ」、「ぜ」を 「じぇ」といい、「先生」は「しぇんしぇー」、「税務署」は「じぇーむしょ」 というそうです。もし身近にそういう訛りの人がいたら、千代大海の悪口を言わな いようにしましぇう。
 つぎに話し言葉全体のイメージというのがあります。以前ある本で読んだのですが、「イタリア語は朗々と歌うのによく、フランス語は愛を語るのによく、スペイン語は神と語るによく、ドイツ語は犬を叱るのによい」というのがあるそうです。確かにドイツ語やロシア語は、いかにも硬い感じで、ヒトラーやスターリンのイメージも重なって、余りよく思われていないのは気の毒な気がします。
 また、日本語を理解できない外国人が日本語を聞いたとき、どんな感じで聞いているかというのも、話題になったことがあります。おそらくは韓国語のようだというのが結論だったと思います.。言葉の印象は、母音が多いか子音が多いかと言うことと一緒に、どんな音が頻繁に出てくる科によって決まってきます。イタリア語は日本語と同じで、母音は五つだけ、しかもほとんど全ての語が母音で終わりますが、言葉の印象は日本語とずいぶん違います。ひとつには日本語が高低のアクセントであるのに対し、イタリア語は強弱のアクセントで、そのためにリズミカルに聞こえることと、日本語にはないいわゆる巻き舌のrが頻繁に出てくるのが原因だと思います。また、ドイツ語の発音が、多くの邦男人たちにあまりきれいに聞こえないのは、g, d, z, bなどの有声子音が多いからだという説があります。
 ところで、日本語である地方のしゃべり言葉の印象を強く左右しているものに、母音の無声化があります。例えば、「速達」という語を、共通語では「く」と「つ」の母音を落としてsoktatsのように発音します。「飛行機」の「ひ」も、hiではなく、ドイツ語のichの子音のような発音をしますし、「菊」の「き」も、ロシア語のкьのような発音になっています。ところが、かなり多くの地方で、これらの母音をしっかりと発音するのです。しかもどこから西などというのではなく、この母音を発音するか市内かは、かなりモザイク上に入り組んでいると言われています。
 この、母音の無声化は、それを話す人々の気質に、かなりの影響を与えているような気がします。むかし落語の演題に「長短」というのがあり、これは江戸の早口でしかも気短な人と、京都のゆっくりしゃべって気の長い人との、コントラストをおもしろおかしく演じたものでした。最後はたばこの灰が袖口に落ち、京都の人がそれを悠長に忠告するので、意思が伝わったときには妄想島焦げてしまっていたというものでした。これは関西人をだいぶコケにしているので、現在は演じられないようです。
 関西は母音の無声化がない地域です。そのために話はワンテンポ遅くなりますが、その分はっきりと言うことが出来、相手に与える印象も強くなります。一方無声化のある島胸式のしゃべり方は早いのですが、ややはっきりしなくなります。特に語尾の「す」があいまいになり、どうしてもお江戸の官僚や政治家のおっさんたちが大好きな、「玉虫色」のしゃべり方になりがちです。一方の関西式なら、はっきり言いすぎて、相手に不愉快な思いをさせることがあるかもしれませんが、いわば腹を割った話し合いが出来ます。近江や伊勢など近畿地方の人が商売に優れているのも、言葉に原因があるような気がします。
 「村語」では見事なまでに母音をしっかり発音します。漁村地域は風邪が強いこともあって、しゃべる声も大きく、なれない人が聞いていると、喧嘩をしているように聞こえるようです。
 訛の一つに「連声化(れんじょうか)」というのもあります。「風邪をひく」を「かじょーひく」といったり、「ねこは」が「ねかー」になったりするものです。しかしこれは少し砕けたしゃべり方であって、地方色というわけではないようです。童謡の「あわて床屋」の最後の節は、「うさぎゃおこるし、かにゃはじょかくし」というのがありますが、連声化を見事三つも使った例と言えます。もう30年以上前にはやった「君といつまでも」という唄に、一世を風靡したせりふ「ぼかー、死ぬまで君を離さない、いいだろう」というのも連声化を馬靴方例です。加山雄三が、死んでもらっぱを離さなかった樋口伍長より有名に慣れたのも、ぼかーのおかげかもしれません。

      いわゆる俗語について  

最近ちくま新書として発刊された、大崎正瑠著「韓国人とつきあうほう」と いう本に、韓国語には辱説(ヨクソル)と呼ばれる相手をののしり、侮辱するた めの語彙が千数百はあるというのに、日本には馬鹿・阿呆くらいしかないと言うこ とが書いて有りました。しかし思うにこれは、著者がよほどいい家庭に生まれ育 ったか、いわゆる温室育ちで下々の言葉にふれる機会がなかったからではないで しょうか。  韓国語のヨクソルの主なものは、セックスや排泄物に関する語句だそうです が、日本語でも女性の性器や性行為を意味する語句は、百を遙かに越えるでしょ うし、自慰(マスターヴェイション)の意味の隠語なども、数十はあると思われます。そのほかに身体 障害者や知恵遅れの人に対する言葉、特定の職業や中国人・朝鮮人、その他の外国人、被差別部落出身者への差別語な どもかなりあり、さすがに普段は使わなくても酔っぱらって口論をしたりすると きなど、つい口に出るのではないかと思います。  ただ、日本人、特に東日本の人は、「口で言うより手の方が早い」傾向があ り、口論よりヴァイオレンスの方がお好きなようです。韓国に旅行に行ったとき 、確かに道ばたで口角泡を飛ばして口論をしている姿を見たことがありますが 、日本でも関西の人はヴァイオレンスより口げんかの方が好きなようで、その文 武別語や俗語などが関東より多いような気がします。関西で二人称代名詞の「お んどれ」という語は、関東の「貴様」や「てめえ」より、遙かに相手を刺激する 語だと言われています。  また、現在もっとも低い階層、というかもっとも下品な言葉とされているの は、やくざの言葉ですが、どす・ちゃか・よせばなどの語句は一般の人でもかな り知っているのではないでしょうか。5年ほど前にあの安部穣二さんが、その手 の言葉の解説書を書いて、文庫本でも出ていて、かなりのベストセラーになった ようです。  俗語や隠語は、文字通り隠れている言葉、つまり放送されたり、また国語辞 典に掲載されることがないものです。また、それは全国的に使われているものな のか、特定の地方で使われている方言なのか、区別が付きにくいものです。小生 は神奈川県からこのはい何地区に転居して98年でちょうど20年目になり、「 いい人」ではなく「いいやつ」と何人か親しくなり、怪しげな所に誘われたり、 その手の言葉を教わることができました。  


    身分・階級と方言について

 上に少し書きましたが、相良町には大字相良の小名ヶ谷(おながや)という ところに、数十世帯の旗本や御家人が明治維新の時にやってきました。警察官・ 教師・役人などになった者が多かったようですが、商売を始めた人たちもいまし た。しかしこれらの人たちは気位が高く、一種のコミューンを作っていたようで 、他の村人たちとは言葉遣いが大分違っていたようです。いわゆる江戸の侍言葉 に近いものでした。  また、住井すゑ女史のベストセラー小説「橋のない川」に描かれている、被 差別部落の人たちは、日本版アパルトヘイトのために、自分たちの部落以外には 住むことができず、やはり独自のコミューンを作ってきました。相良にも中心街 のはずれに被差別部落があり、屠畜や皮革のなめし、オンボウと呼ばれる葬儀関 係や衛星間形、ものみと呼ばれる占い師などになっていましたが、戦後になって 解放運動の高まりや、都市計画などの影響で、表面上は区別がなくなりましたが 、「あれは○○(旧被差別部落の字名)の衆だから」などというひそひそ話はよ く聞きますし、中小企業への就職や結婚などでは差別が表面化することもあるよ うです。また、嫌がらせなどを懸念して、電話帳への不掲載、玄関を常時施錠し てある家なども多く、地域活動への参加も積極的ではありません。長い間の隔離 された生活から、他の村人たちとは多少言葉が違っています。  しかし江戸幕府崩壊から130年、民主憲法施行から50年が経ち、これら の昔の身分制度による差は、中年以下の人たちでは全くと言っていい程なくなっ ています。さらに他県で勉強や修行をするのが当たり前になり、方言そのものも だんだんなくなってきているような気がします。  しかし不思議なことに、みんなが共通語に近づくかというとそうではないよ うです。「超サイテー」など、変な俗語が昔よりかなり多くなっています。  神や仏でない人間は、有る意味では下品な動物と言ってもいいでしょう。タ テマエとしての標準語や共通語では、自分の本音を表現することはできません。 其処の俗語や方言の出番があるわけす。

  遊びと村語

 村語の宝庫と言えば、忘れてならないのが子供の遊びの世界です。1950年代、今の団塊の世代が小学生だった頃までは、まだほとんどの家庭にはテレビが普及していないこともあり、子供はお寺やお宮、またちょっとして空き地や路地などで、集団を作って遊んだものでした。街道筋以外は排気ガスをまき散らす“走る凶器”もあまり出没しなかったことも、幸いでした。
 今の子供はテレビゲ−ムなど、一人でする遊びが好きなようですが、当時の遊びはだいたい十人くらいの仲間でやることが多く、その中で社会の仕組みや習慣、言葉や自然科学などを覚えることもでき、今のように自殺者がでるほどの悪質ないじめもなかったわけで、そうした面では今の子供より健全だったといえるでしょう。
 遊びの世界では、遊びの名前から、そのときの囃子詞、遊び歌の文句など、それぞれの土地でいろいろな名前が付いていました。ものによっては部落が違うと全然言い方が違うというものまであり、一つの町の遊び言葉だけで、一冊の本ができるほど、語彙が豊富だといわれています。
 たとえば、トンボ捕りは、加賀の千代女の俳句を持ち出すまでもなく、男の子には大変人気のある遊びでしたが、獲物の王者と言っていいのが、大きくて美しいオニヤンマでした。
 オニヤンマを村語では“おんじょ”といいますが、さらに雄を“あおたん”、雌を“めと”といいます。アオタンとメトは、さらに翅の色や胸・腹の色・模様によって様々な名前が付けられ、その数は十を軽く越えたということです。ただ残念ながら、こうした言葉を知っているのは、戦前に子供だった人、もう六十代後半から七十代のおじいさんに限られており、もう完全に死語といっていい状態になっています。
 メンコや羽子板などの遊具についても、材質や形、絵の内容によって呼び分けられていたそうです。メンコは武将などの絵がついている丸いものを“ぺったん”といったほか、四角いもの、