◆ 第 2 章 (1)

 ラスターマンの店は、自然でも普段どおりでもなかった。身の丈六フィートで四角い顎をしたドアマンは、ぼくらを見ると扉を開けて中へ通したが、その後だしぬけにウルフの巨大な背中に話しかけた。「本当なんですか、ウルフさん?」ウルフが無視して行ってしまうので、ぼくが振り向き、うなずいてみせた。ウルフがクローク・ルームの前を通り過ぎ、そのままどんどん進んでいくのでぼくもあとに従う。ダイニング・ルームへ行く途中には広間がある。マルコがラウンジと呼び、ぼくが奥にそれがあることから、バーと呼んでいる部屋だ。もうすぐ九時半だったし、その時間ともなると馴染み客はダイニング・ルームで perdrix en casserole(ヤマウズラの煮込み)か、tournedos Beauharnais(牛ヒレ肉のボーアルネ風)に没頭していることもあって、部屋には二、三人の客がちらほらテーブルについているだけだった。店は、落ち着いてはいるが、かといって堅苦しくもない雰囲気をかもしだしている。これは、もちろんマルコの手腕によるものだったが、フェリックスやレオ、そしてジョーといった有能な連中の助けがあればこそだった。彼らは徹底的に仕込まれている。だからぼくは、連中がまばたき程度のマナー違反をするところすら見たことがなかった。ただし、その夜までは。部屋に入っていくと、ダイニング・ルームの入り口に立っていたレオが我々をみつけた。彼はこちらへ来かけたが、すぐに向きをかえるとまた引き返し、ダイニング・ルームに向かって叫んだ。「ジョー!」
 まばらにいたバーの客から不満の声が洩れる。レオはまた向きをかえ、手で口をピシャリと叩くとぼくらの前に立ちふさがり、ウルフを食い入るようにみつめた。レオは額に汗をかいている。またしてもマナー違反だ。ひなバトを五ドル以上で出すレストランの長たる者や給仕がしらが汗をかくなんて、許されることじゃない。
 「本当なんですか」レオがシューシューした声で言う。口に手をあてたままだ。彼の体格は良いほうではない――チビではなかったし、肩幅だってわりとあるのだが、肩から下がかなり華奢なのだ。彼は手は下ろしたが、声はひそめたままで、「ほんとに、ウルフさん、本当なんですか? きっと――」
 後ろから手が伸びてきてレオの肩をつかんだ。ジョーだった。彼はつかむという行為に最適な身体つきをしている。マルコと共に過した歳月で洗練されたせいか、もはやプロレスラーにはみえなかったが、大きさと身体の線はそのままだった。
 「落ち着くんだ。このばかが」ジョーがレオにうなった。「お席を用意しますか、ウルフさん? マルコはおりませんが」
 「知ってるよ。彼は亡くなった。席は――」
 「そんな大声を出さないでください。お願いしますよ。じゃあ、マルコが死んだというのは本当なんですか?」
 「ああ。この目で確かめた。席は用意せんでもいい。フェリックスはどこかね?」
 「フェリックスは警官二人と一緒にオフィスにいます。奴らときたら、来るなりマルコが撃ち殺されたって言いまして。フェリックスは、レオとわたしにディナーをまかせて二人を連れて三階へ上がってしまいました。事情はドアのところにいるヴィンセントのほかには誰にも話していないんですよ。マルコならディナーが台無しになるのを嫌がるだろう、ってフェリックスが言うもんですから。客が飲んだり食ったり、それに笑ったりするのを見てると吐きたくなりますよ。でもたぶん、フェリックスの言うのが正しいんでしょうね――どっちにしろ、あの時のあいつの顔といったら、議論の余地はなかったですが。フェリックスが正しいとお考えですか? わたしとしては、客全員を追い出してドアに鍵をかけてしまいたい気分ですがね」
 ウルフは首を振った。「いいや、フェリックスの言う通りだ。食事を中断させることはないよ。わたしは上へ行ってくる。アーチー?」彼はエレベーターへ向かった。
 建物の三階は一年ほど前に改装され、正面側にはオフィスが、裏側には個室のダイニング・ルーム三部屋がある。ウルフはオフィスのドアをノックもせずに開けて中へ入った。ぼくもあとに続く。テーブルを囲んでいた三人の男がぼくらのほうを向いた。黒い眼で灰色の髪をした筋肉質な小柄な男、フェリックス・マーチンは――もちろん制服を着ていた――立ち上がるとこちらへやって来た。あとの二人は座ったままだ。彼らの世界も階級によって制服が分かれている。警部のが一着、巡査部長のが一着というところだが、二人とも制服を着て仕事をすることはない。
 「ウルフさん」とフェリックス。その声に馴れてしまった今となっても、このサイズの男からこれほど力強い低音が出るのには驚かされる。「この世で最悪のことが起きてしまいました! 最悪ですよ! 万事順調だったのに!」
 ウルフはフェリックスにうなずくとクレーマー警部の横まで行き、尋ねた。「なにかつきとめましたか?」
 クレーマーは自分を押さえていた。彼が自分を抑制してる時はいつだって、そのどでかい丸顔の赤みが少し増して、そのうえ冷淡な眼も冷たさを少し増すのだ。「分かっとるよ」彼はみとめた。「この一件にあんたが個人的に興味があるっていうことはな。ステビンズ巡査部長もあんたに許可をやるべきだろうと言っとるし、わしも賛成だ。それから、これは最初で最後のことだが、今回はあんたが提供してくれる援助をすべて快く受け入れるつもりだ。だからまあ、気を楽にしてやろうじゃないか。椅子を持ってこいよ、グッドウィン」
 ぼくはウルフに、マルコのデスクにあった椅子を持って行ってやった。ほかのどの椅子よりも大きさの点で希望に近かったからだ。自分用の椅子についてはそれほどこだわらなかった。ぼくが話に加わると、ウルフが気楽なんてほど遠い調子で尋ねた。「なにかつきとめたんですか?」
 クレーマーはそれを大目に見た。「詳しいことはまだ何も。なにせ、殺人があってから、二時間しかたっていないんだからな」
 「分かってますよ」ウルフが椅子の中で、より座り心地の良い場所を求めて身体をずらしながら言った。「もちろん、殺した奴の名前を知ってるかどうか、フェリックスに聞いてみたんでしょうな」彼は視線を移す。「知ってるかね、フェリックス?」
 「いいえ、ウルフさん。知ってるわけがありません」
 「心あたりもないのか」
 「ありません」
 「七時以降はどこにいた?」
 「わたしですか?」黒い眼がウルフをみつめた。「店にいましたよ」
 「ずっとか?」
 「はい、ウルフさん」
 「ジョーはどこにいた?」
 「彼もここにいました」
 「ずっと?」
 「はい」
 「確かだな?」
 「もちろんですよ」
 「レオは?」
 「彼も店にいました。ずっと。ディナーの時間だっていうのに、いったいほかにどこへ行くっていうんですか? それにマルコが来ない時は――」
 「悪いんだがね」クレーマーが遮った。「そんなことはとっくに聞いてるんだ。もう聞く必要はない――」
 「こちらには聞く必要があるんです」ウルフが彼に言った。「わたしには二重の責任があるんですよ、クレーマーさん。友人を殺した奴が逮捕され罪を問われるのを、一刻も早く見てやろう、とわたしが意気込んでいるのだとお思いなら、たしかにその通りです。ですが、わたしには別の責任もあるんです。すぐにあなたも公式に知らされるでしょうが、友人は遺書で、わたしを遺産執行者、および、当座の管財人と定めているんですよ。遺産受取人ではありませんがね。実質上、このレストランがただひとつの遺産といえます。店はここで働いている六人に残されたわけですが、そのうちの三人が株の大半を受け取ることになっています。わたしがさきほど質問をしたのは、彼らが一年前、遺言が書き替えられた時に、その中身を知らされていたからなのです。ヴクチッチには近親者はいませんでした。祖国にも誰もおりません」
 クレーマーがフェリックスをじろりと見た。「ここはどのくらいの価値があるんだ?」
 フェリックスは肩をすくめる。「存じません」
 「ヴクチッチが死んだ場合、君がここの共同経営者になるってことは知ってたかね?」
 「もちろんです。ウルフさんがおっしゃったことをお聞きになったでしょう」
 「さっきはそんなこと言わなかったじゃないか」
 「なんてこった!」フェリックスは椅子から立ち上がった。その身体はわなないている。少し立っていると震えがおさまり、また椅子に座ると彼はクレーマーの方へ身を乗り出した。
 「ものごとを話すには時間がかかるんですよ、警部さん。マルコとわたしとの関係やマルコと店の従業員との仲ついて、話せないことなんか、なに一つありません。マルコは仕事に厳しい人でした。厳しすぎて、時には荒れて怒鳴ることもありました。ですが、立派な人でしたよ。わたしが彼のことをどんなふうに思っているかお聞きになりたいんでしょう。こう思ってます。わたしがどこにいようとも、わたしのそばにはいつでもマルコがいるんだってね。ある男がマルコを撃とうとして彼に銃を向けたとします。わたしなら、マルコの前に飛び出していきますよ。たいした英雄だっておっしゃるでしょうね? だけど、そんなんじゃない。これがわたしのマルコに対する気持ちなんです。ウルフさんにお聞きになってみてください」
 クレーマーがうなった。「たった今、お前さんが七時過ぎにはどこにいたのかを聞いたのはウルフだよ。レオとジョーはどうだ? 二人はマルコをどう思ってた?」
 フェリックスは背筋を伸ばした。「本人たちに聞いてください」
 「お前さんは、二人がマルコにどんな感情を持ってたと思う?」
 「わたしと同じではないと思います。なにぶん気性が違いますから。ですが、果たして彼らがマルコに危害を加える気があったかといえば――そんなことは有り得ません。ジョーなら、弾を食い止めるためにマルコの前に飛び出すなんてことはしないでしょうね。彼のことだから、銃を持った男に飛びかかっていきますよ。もしレオだったら――わかりませんが、わたしの考えでは、彼は大声で警察に助けを求めると思います。それを嘲笑うつもりはありません。助けを求めて叫ぶっていうのは、腰抜けよりはずっとましですから」
 「きみらのうちの誰ひとりとして現場に居合わせなかったっていうのは、残念だな」クレーマーが感想を述べた。余計なお世話だ、とぼくは思った。クレーマーがフェリックスを嫌いなのは明らかだ。「とにかくお前さんは、ヴクチッチを殺したがってる奴に、まるで心あたりがないって言うんだな」
 「ええ、警部さん。まるでありません」フェリックスはためらいがちに言った。「もちろん、ひとつ――一人以上と言うべきでしょうか、ひっかかることはあります。女のことなんですが。マルコは色男でした。店の仕事から彼を遠ざけることができたただ一つのもの、それが女でした。だからといって、マルコにとってソースよりも女のほうが大事だった、なんて言うつもりはありません――彼がソースをおろそかにしたことなんて一度だってなかったです――マルコが女好きだったってことは確かですが。でも、結局のところ、お客さまの給仕のほうはジョーやレオ、それにわたしがいれば十分ですし、支度さえすべて整っていれば、かならずしもマルコが厨房にいる必要はなかったんです。ですから、マルコが厨房よりも自分のテーブルに客人を招いてディナーを楽しむほうを選んだとしても、我々の間にはなんのわだかまりもありませんでした。ですが、ほかの人間の反感を買ったとも限りません。個人的にはよくわかりませんけどね。わたし自身は妻と四人の子持ちでそんな余裕はありません。でも、女ってやつは、時として激しい感情をめばえさせるもんですよ、誰でも知ってることですがね」
 「つまり、やっこさんは女の尻を追っかけ回してたってわけだ」ステビンズ巡査部長が吐き捨てるように言った。
 「ふん!」ウルフもステビンズに向かって同じように言いかえした。「女性への献身が常に肉欲のためのへつらいとは限りませんぞ」
 その言葉はそこに居合わせた一同を厳粛な気持ちにさせたが、そう言うウルフ自身がマルコの女性関係をぼくに尋ねた、ということもまた事実だ。続く三時間、会話の話題はマルコの女性関係にほぼ終始した。フェリックスは解放され、ジョーを上へ寄こすよう言われた。殺人課の刑事数人と地方検事が店に到着すると、事情聴取のため、ウェイターやコックが次々に個室のダイニング・ルームに呼ばれた。誰もが個人的な質問を二、三受けたあと、ここ一年ほどの間にマルコ個人のテーブルで食事を共にした女性について詳しく質問を受けた。ウルフが切り上げる気になって、上体を起こして伸びをする頃には、もう十二時はとっくに過ぎていたし、膨大な量の信頼できる情報が集まっていた。その中には女性七人の名前も含まれていたが、悪名高い女は誰ひとりとしていなかった。
 クレーマーがしゃがれ声でウルフに言う。「あんたはさっき、殺人犯が逮捕されて罪を問われるのを一刻も早く見てやろうと意気込んでる、と言っとったね。それを邪魔だてするつもりはないんだが、ちょっと言っておきたいんだ。警察としても喜んで力になるよ」
 ウルフは皮肉を無視してクレーマーに丁寧に礼を言い、ドアに向かった。
 タクシーでダウンタウンに行く途中、ぼくは、誰もスー・ドンデーロの名前を口にしなくてよかったですよ、と感想を述べた。ウルフは座席の隅っこで吊り革を握り締め、万が一の場合に備えて飛び出す用意をしていて返事どころではない。
 「ですが、結局のところ」ぼくは付け加えた。「スーを入れるまでもなく、女の名前は十分集まったんですからね。ご当人たちは気に入らないでしょうが。明日の今ごろまでには女性一人につき五人としても、全部で三十五人もの警官がリストに取り組んでいることでしょう。まあこれは、参考までに申しあげただけですよ。明日の朝十一時までに七人全員をうちのオフィスに呼び集めろ、なんて命令されたらどうしようかと思いましてね」
 「黙れ」ウルフがぶつぶつ言った。
 いつもなら、この手の命令には口で応戦するのだが、その時は、素直に従ったほうがいいと考えた。西三十五丁目にある古い褐色砂石造りの建物前の歩道の縁で車が止まると、ぼくは運転手に料金を払って外へ出た。ウルフのためにドアを押さえてやってから、ポーチまで七段の階段を上り、自分の鍵で玄関のドアを開ける。ウルフが中に入ったのでドアを閉め、かんぬきをかけてから後ろを振り向くと、フリッツがウルフに来客を告げているところだった。「ご婦人がお待ちになってます」
 あの女たちがよばれもしないのに不意にやって来たんだとしたら、骨を折らなくても済むってもんだな、とふと考えたが、フリッツが続けて言った。「お嬢さまですよ、ブリットン夫人です」