
今川義元の近習・松井五郎八郎宗信
東海道線菊川駅から、南遠の小笠郡浜岡町方面に通じている県道を、五キロほど南下すると、牛渕川にかかる近代的な橋がある。その橋を渡った南側の集落が小笠郡小笠町下平川である。その下平川に「城山」と呼ばれている標高36メートルの小高い山がある。山頂は平坦になっており、小笠町上水道のタンクが置かれている。この山に室町時代、武将松井氏の居館が構えられていた。そして松井氏によって平川郷一帯が支配されていたことが古文書を通じてうかがわれるのだ。県道から東に入ると山頂に通ずる山道がつけられており、かなりの勾配だ。中腹と頂きの二ヶ所に小さな祠(ほこら)があり、鎮守神がまつられている。ところで麓から山道を30メートルほど登った山の斜面に二基の五輪塔が、訪れる人もないまま雑草の中に苔むしている。土地の伝承によると武将松井氏の墓だということであるが、後に建立された供養塔とも思われる。
松井岩根大将、五輪塔を訪ねる
太平洋戦争前、この下平川の里を訪れ、山腹の五輪に花をたむけた一人の軍人があった。松井岩根陸軍大将である。松井大将というと東京裁判において、南京攻略のとき日本軍が犯した殺戮事件の責任を問われ、死刑の宣告をうけて処刑された戦犯としてしられているが、その松井岩根大将が、松井氏一族の流れを汲んでおり、一度先祖が活躍した土地を踏んでみたい・・・・とこの地に杖をひいたものであった。
駿河での松井一族
遠江における松井氏というと天竜川中流東岸に構えられていた二俣城(天竜市二俣町)の初期の時代の城主として知られ、松井信薫(のぶしげ)、同宗信、同宗親(むねちか)、同助近とつづいた四代を上げることができる。松井信薫が平川郷「小笠郡小笠町)から二俣の地に移されてきたもので、平川郷に居館を構える以前は駿河国葉梨郷(藤枝市葉梨地区)に居住し、数代にわたって今川氏に従属していた武将であった。従って、遠江の松井氏の系譜をさかのぼって考えると、駿河における松井氏のことどもにふれないと記述を進ませることが出来ない。
松井氏の古里藤枝市葉梨地区は国鉄藤枝駅から北東に6キロほど入った山あいの里で、藤枝市に合併前の志太郡葉梨村である。今では周辺に大規模な住宅団地が生れ、往時の静けさはないが、今川氏ゆかりの史跡が非常に多い歴史の里であるだけに、歴史マップを手にこの里を訪れる人たちが多い。松井氏と葉梨郷については「駿河志料巻之九」の「志太郡葉梨郷下之郷」の項に
「この地は建武年間より松井家の領地にて、邸宅もありしに拠りて然称す、松井兵庫頭この地に住し、五代の孫兵庫頭保仲、今川範忠に属せり=中略=この地数代居住と思しく、古屋敷の地名存せり。」
とみえている。
「駿河志料」のこの項のなかに、足利尊氏が松井兵庫允にあてて発給した建武五年(1338)。一月二日付けの判物を紹介しているが、この一年前の建武四年(1337)七月五日付けで、今川範国が松井八郎助宗に対して発している軍忠状(土佐国菟蠧集残編)に「山城国御家人松井八郎助宗申軍忠事」にみえており、松井氏が山城国(京都府)出身の御家人であることが判り、建武、暦応の南北朝の時代、足利尊氏のもとに属し、今川範国支配下にあって各地を転戦し、軍功をたてている。建武五年(1338)の尊氏発給文書のなかに松井兵庫允に対し「駿河国葉梨荘内田地壱町並屋敷壱所地頭職事・・・」とあり、松井氏は軍功に対する賞として駿河の葉梨卿をたまわったことが判る。葉梨卿における松井氏の居館について「駿河雑誌」には
「松井屋敷止駄郡の卿松井にあり、建武年中松井兵庫允宗次居住の地也。此人始尊氏卿に仕え、後今川家に属す。代々相続して茲に住せり、宗次十代の孫宗保の子康親は松井周防守と号し、御当家の功臣となる。」とあり、建武年間より累代にわたって葉梨卿に住していたことが判り、さらに今川氏親が時の松井氏のあるじ松井山城守に発給した永正十年(1513)の文書によると、忠節によって遠江国下平川卿を与えるとあり、このとき、葉梨から下平川卿に移ったものと思われる。ところが平川峡に松井氏が居住していたのはきわめて短期間で、翌永正十一年(1514)には遠州の二俣(天竜市二俣町)に配置がえになっている。
二俣城主として今川に忠勤
二俣城に最初に入ったのが松井左衛門尉信薫であった。以後松井氏は宗信、宗親、助近と代を重ねてこの城に住することとなったが、いずれも討死あるいは横死をして果てており、戦国武将としての宿命的な系譜をみせているのだ。松井信薫が下平川卿から二俣に入った当時どの程度の所領であったものか必ずしも明らかではないが、信薫の次代にあたる八郎五郎宗信の時代の石高については「今川分限帳」に「遠州二俣城主二万三千石 松井五郎八郎」とあり、松井氏は今川家の家臣団中でも重要なポジションにいたことが判る。
二俣城は今川の幕下であった二俣遠江守昌長によって築かれた山城で、その昌長が米倉の地(周知郡森町米倉)に移ったあとへ松井信薫がやって来て二俣城主となった。そして数年のちの大永年間(1521〜25)に野部郷神田谷に神谷山天竜院を開創している。天竜院はその寺号が示すように天竜川東岸にある曹洞宗の禅刹である。現在の磐田郡豊岡村上野部の山あいに伽藍を沈めている。参道を進むとまず目に付くのが朱塗りの山門だ。寺は過去二度ほど不慮の災火をうけて本堂をはじめとする堂字が焼失、その都度再建され今日に至っているが、山門だけは他の建物と離れていたため、焼失をまぬがれ、すでに400年近い風雨に耐えてきている。山門をくぐった正面に本堂、その本堂前庭西側の墓苑に松井宗信の五輪塔が苔むしている。
位牌堂は本堂の背後にあり、正面に厨子におさめられた黒漆塗りの位牌が安置されている。「当山開基天竜院殿心応正前大居士」と刻まれている一つの位牌がいうまでもなく松井左衛門尉信薫(のぶしげ)である。天竜院の過去帳によると没年は享禄元年(1528)2月3日と記録されている。二俣城内において病死した信薫は自らが開いた禅苑に葬られ、「院殿大居士」という最高の位牌をおくられこの寺に眠っているのである。信薫が没したあと弟の松井五郎八郎宗信が二俣城主となった。「今川分限帳」にみえている松井五郎八郎がこの人である。松井氏歴代中でもこの人がもっとも行動派であったようで、各地を転戦のすえ、永禄三年(1560)には今川義元の配下として尾張国に進撃、桶狭間の戦いに一族郎党と共に奮戦ののち討死した。享年46歳であった。天竜院の記録によると、父宗信と共に桶狭間に出陣していた子の兵庫守助近(すけちか)は、織田信長の奇襲をうけて討死した父宗信の首級をなんとか菩提寺である天竜院に葬りたいと、非常な困難をのりこえて遠江まで持ち帰り、天竜院に葬った・・・・と記されており、その首塚が今も同院の一角にある。
宗信が桶狭間で討死したため、そのあとを信薫の子宗親(むねちか)がつぎ二俣城主となった。そして永禄三年(1560)以後足掛け6年間在城したが、永禄八年(1565)駿府において横死している。この事件は引間城主飯尾豊前守連龍(つらたつ)が今川氏真に駿府に呼び出され謀殺されたとき、飯尾氏と松井氏との関係は豊前守連龍の姉が松井宗親の室(妻)になっているもので、いわば義理の兄弟の間柄である。
宗親のあと二俣城には宗信の子助近が在城していたが、彼の在城も永禄九年(1566)からわずか数年で、天正二年(1574)には武田勢と天竜川で戦い討死している。この間遠江における政治情勢は大きく変わっていたのだ。今川家の斜陽化にともない、徳川家康が三河から遠江に侵入したことによって、小土豪や地侍達は大きく動揺した。今まで通り今川氏に忠勤をつくすか、徳川に従属するか、あるいは甲斐の武田に味方するか、三つに一つの道を選ばなければならなかったのだ。このとき二俣の松井氏は二つに分裂した。嫡流の山城守が武田へ属する動きをみせたのに対し、分流の和泉守とその一統は徳川へ味方する動きをとった。このため家康は山城守の所領をとりあげ、和泉守に対し所領安堵状を発給している。ところがいったんは徳川方に従属の意思を表した松井和泉守ではあったが、三方原合戦の元亀三年(1572)12月にはにわかに武田方に走っている。戦国乱世とはいえ、今川から徳川へ、そして武田へと動いた松井和泉守の迷いは、やがて彼自身を重大な岐路に走らせるところとなるのである。
天竜市にある松井氏遺跡
二俣地方における松井氏の遺跡としては、豊岡村上野部の天竜院と、天竜市阿蔵の玖延寺(きゅうえんじ)の二ヶ所があげられる。天竜院には前述した通り、松井宗信の五輪と首塚があり、玖延寺には松井兵庫守助近ゆかりの雲板(うんばん)がある。
兵庫守助近は永禄五年(1562)四月八日、玖延寺に対して雲板を寄進したのであるが、これが延享四年(1747)正月の火災で失われてしまったため、宝暦十年(1760)に松井氏の末裔にあたる松井藤太夫がふたたび雲板を寺に寄進した。その雲板が現在残っているもので、その銘文に先祖にあたる松井兵庫守助近永禄五年(1562)に雲板を鋳造して寄進したが火災で失われたため、いまここに再鋳して寄進する・・・・・という一文が刻まれている。雲板を再鋳寄進した松井藤太夫が松井兵庫守助近と系譜の上でどのようなつながりをもつものか明確ではないが、雲板には『当国気賀町松井藤太夫寄進之』とあるから、当時藤太夫は引佐郡気賀宿に居住していたものと思われる。
松井氏歴代中でも特に戦国の歴史を彩っているのは宗信であった。宗信の五輪塔が豊岡村の天竜院にあることは前に記した通りだが、宗信が討ち死にした尾張の桶狭間古戦場跡にも彼の墓がある。今川義元戦死の地にほど近い一角に大きな墓碑があり、彼の事績を刻んだ標碑も建てられている。宗信は今川義元の近習として駿府に在府していることが多かった。近習とはいわゆる側近であって、最も信頼されていた家臣である。だから宗信は誰よりも義元に対する忠誠心が強かったであろう。桶狭間で義元が織田信長の奇襲をうけて討ち死にしたとき、彼は一党200余名と共に防戦につとめたが、力尽き、主君と共にその生涯を終えたのだった。桶狭間古戦場の一角にある浄土宗の和光山天沢院長福寺(名古屋市緑区)に松井宗信の木像が安置されている。江戸時代の後期に宗信の流れを汲む松井一族七家の人達の手により納められたもので、この寺には位牌もまつられている。
おわり